2014年09月18日

自分にとっての両親(5)

この話が途中で止まっていたことを忘れていましたので、久々の続編です。

父が私の名前を母に相談も無く勝手に決めて役所に届けてしまった話は既にしましたが、
私が高校を卒業する頃に又しても同じ様なことがあって、父は私を自衛隊に弟を警察にと
勝手に就職させることを決めていたらしくて、そこへ持ってきて私がバイトとバンドで学校を
サボり気味になり、おまけに私が音楽の関連の学校に行くと言うと、もう大変でしたね。

更には後に弟が父の思い通り警察に就職したものだから、弟は自慢の息子、
私は父の家系にはいない怠け者の息子と言う差別がされ、それを態度にはっきり出していました。
しかも私が父の反対を押し切って行った学校を1年で中退して帰ってきましたので、
ますます不仲に、そして実家に戻って私が就職した会社がまたワンマン社長の酷い会社で
まともにボーナスももらえない会社で、当然面白くないので転職を考えて職安へ通うこととなり、
職安に通うためには当然仕事は休むわけで、それがいっそう父の不満となったようです。

そうして最初に就職した職場を1年で退職して、その後27年弱勤めることになる職場へ
転職をこととなったのですが、ちなみに最初の職場も転職後に勤めた会社も電気関係の
メーカーで1年で辞めた職場はTDKの下請け会社でした。

転職先の職場はしっかりした大手電機メーカーだったのでワンマン社長の会社と違って
組合もあって、ボーナスもきちんともらえる会社で、父とは不仲な自分も年末のボーナスの時は
決まって父には御歳暮的な物を送ったりもしていたのですよ。
学生の時とは違って、真面目に仕事には休まず通っていたし、学生の時だって部活をしている頃は
真面目に通っていて、部活が引退してサボり気味の時だってアルバイトは真面目にしていました。
多分自分はバイト代とか給料とか見返りがあるものならちゃんと出来ると言うことかもしれませんね。

その頃から父も自分もお互いに触らぬ神にたたりなしと言う感じでお互いを避けるようになりました。
私が20代後半の頃だったか?母の弟である私の叔父が同居することになった。
叔父は離婚して、子供達は叔母さんの方に行ったので一人となり、しばらくは母の実家がある
町田市や相模原周辺で一人暮らしをしていましたが、とにかく酒とゴルフが好きな人で
ゴルフ場で仕事をすることを望み、ゴルフ場の多い千葉県に住んでいた母を頼って来たのです。

続く
posted by のり at 00:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 脊髄損傷・癌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月03日

自分にとっての両親(4)

中学1年の時に親が家を建て袖ヶ浦市に引っ越してきました。
母にとっては念願の自分の家だったようですが、1年もしないうちに父の親である祖母を
引き取ることなり、父とそっくりな性格の祖母に母それから20年近く振り回されることになります。

当時祖母は60代でまだまだ元気で身体も丈夫だったので、母は台所の洗物や風呂掃除等
簡単な家事を頼みましたが、先にも書いたように父と同様で一般的な常識が無い祖母は
台所で洗物をさせると綺麗に洗うことが出来ない、風呂の掃除もいい加減という始末。
それでも自分が基準の常識なので「ちゃんとやった」と言い張るばかりでした。
結局祖母は母の助けとなるような家事は全くできないことがわかっただけでした。

今でも思い出すのは、その後母との間では笑い話のネタになっていることで、お彼岸に
御萩を祖母が造る事になりました(何でそうなったのかは覚えていませんが)。
「出来たから食べな」と言われた御萩を見て、私は「はっ?何これ?」と言いました。
それはおにぎりのような米の塊に小豆の汁と小豆が数粒掛っているだけの物でした。
それでも自分が基準の常識である祖母は「御萩だ」と言い張りました。

そんな祖母が今で言う認知症になったから母はかなり大変でした。
認知症にはいろいろ症状がありますが、祖母の場合は徘徊がひどくて、すぐにいなくなってしまう。
元々が群馬県出身の祖母、群馬県は歩いて行ける距離にあると思い込んでしまっていました。
しかも昔の人なので足腰は丈夫で、袖ヶ浦市の自宅から隣の市原市まで歩いたこともありました。
そんな感じだったので祖母の着る物には母が住所や名前を書いた小さなゼッケンのような物を
縫い付けていたので、ある時には見知らぬ人が祖母を遠くで見付けて家まで送ってくれたなんて
こともあるぐらいの徘徊のひどさで、それを探し回る母の身体にはかなり負担だったと思います。

私はまだ学生だったし、父が家にいればイヤイヤでも車で一緒に探すこともありましたが、
そうでない時は母は自転車で探し回り、見付けると祖母を自転車に座らせて、
押してきていたと言うのだから驚きです。

そしてその頃、母に心配を掛けてしまったのが実は自分です。
高校に入って3年の最初の頃までは部活もやっていたので真面目に通っていましたが、
部活が終わってしまうとバイトとバンドで忙しくて、学校をサボることが多くなってきました。
そんな私を父は「俺の家系にはこんな怠け者はいない」と母に何度も言ってたそうです。
母はその後、自分が産んだ子供が父親からそんな風に言われて悔しかったと話していました。

続く
posted by のり at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脊髄損傷・癌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月20日

自分にとっての両親(3)

中学1年の3学期に親が建てた家に引っ越すことになり、当然転校になりました。
この転校した先の中学校が後の自分のやりたいことが出来たことと、前に書いた父の実家が
人手に渡ることになり、その後すぐに祖父が他界してしまったために祖母を引き取ったこと、
この2つの出来事が原因で父との溝が深まり、母寄りに自分が成っていったのだと思います。

まず転校した中学校ですが、バンド活動が凄く盛んな中学校でした。
自分も小学校の時からまわりの大人(父以外の)の影響で、洋楽を好んで聴いていたぐらいなので、
すぐにバンドをやりたいと母に少し出資を頼んでエレキギターなるものを手にしました。
そしてこの頃から日本のロックバンドの曲も聴くようになったわけなのですが、とにかくそういう音楽を
演歌一筋の父は理解してくれないし、ギターを弾いていると「うるさい」と文句を言われるわけです。

そしてもうひとつは父が田舎から祖母を引き取ったことにあります。
父としては自分の親が住んでた家を他人に取られて住む場所が無いのだから引き取るのは
当然のことで、普通なら自分も母も仕方がないことなんだと理解も出来るのですが、
この父と祖母は非常に性格的に似ていて、簡単に言ってしまうと常識が無い。
言い方を変えるとこの二人の常識は一般常識ではなく、自分自身が中心の常識でした。

例えば父はよく体調が悪い時の母に対して「身体の弱い女房を持つと苦労する」等、
今の夫婦なら即離婚になるようなことを言ったり、高校生の時に私が授業をサボったりすると
「俺の家系にはこんな怠け者はいない」等と言われ、母も自分も悔しい思いをさせられました。

その父の家系ですが、父の弟(私の叔父)は我家に転がり込んで、近所の大工さんに弟子入りして
働いていたが仕事で何か問題を起こすと、父がその大工さんの家に怒鳴り込んで文句を
言ったりしていましたが、当時子供だった自分ですらどう考えても落ち度は叔父の方にあるのに、
何と言っても一般常識が無くて、自分中心の常識なので、母の血が入っている自分は
怠け者扱いで、実際に怠けていた自分の兄弟の叔父はかばう、おかしな話ですよね。
後々に母によく自分が言っていたのですが「父の家系にはいないと言われて嬉しかったよ」と。
だってそうですよ、こんな非常識な家系の人たちとは一緒にされたくないと思いましたからね。

そしてその父や叔父の母親である祖母、この人がまた凄い非常識な人で、こんな話があります。
ある日、祖母が私にお菓子をくれました、名前は忘れましたが確かポテトチップス系のお菓子です。
私はそれをすぐに食べなかったのですが、自分の部屋のテーブルに置いてありました。
それが2日後ぐらいになくなったのですが、探してみると祖母が食べていました。
「何でだ?」と聞くと「食べないからいらないのでしょう」と、非常識でしょう。
この祖母の確認もしないで勝手に決めてしまう、現在の父が全くもって同じなのです。

この私が中学生の頃に我家は父と祖母、母と私、そして無関心な弟に分裂したような感じです。
そしてその後、その非常識な祖母が今で言う認知症になってしまって、元々常識がない人が
わけわからなくなってしまったために、母は相当大変で、私はそれをずっと見てきたわけです。
そして非常識な家系の父や叔父、叔母達も皆揃って、認知症の祖母は母に押し付けただけでした。

続く
posted by のり at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 脊髄損傷・癌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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